嘉南平原の気候は、少雨(夏が多雨で冬が乾季)で、日照時間が長くて、農産物の収穫は天候に依存しました。土地生産性は台湾北部及び中部の半分にすぎませんし、沿岸地域には塩分濃度が高い問題がありました。当初は干ばつと水害の繰り返しで食物が収穫できなかった嘉南平原が、1930年に嘉南大圳が完成してから、給水システムは大幅に改善され、台湾の「穀倉」までなりました。
この嘉南大圳の烏山頭ダムの設計及び建設に、八田與一技師(烏山頭出張所の所長)が大きな貢献をしました。
八田與一技師は24歳で台湾に来て、戦争難破で56歳で亡くなり、32年間も台湾に勤めました。主な仕事は高雄港の開発と探査及び台南市水道の開発、桃園大圳の設計、嘉南大圳の計画・設計・灌漑システムの決定、日月潭発電所の位置探査などを担当しました。中でも、嘉南大圳の建設は、最も大きな貢献を果たしました。
台湾光復(1945年8月15日)後、最高行政機関の台湾省行政長官公署に管理され、日本の神社が取り壊され、日本人の銅像も破壊されました。混乱中に、台湾を支配した日本人は台湾から撤退しました。 「嘉南大圳水利組合」も1946年2月13日に引き継がれ、「嘉南農田水利協會」に改名され、日本との連携を絶たれました。
1931年7月31日に台湾「交友會」に建てられた八田技師の座像が1944年に軍から鉄棒を切り落とされ、銅像が溶けてしまったと思われました。
1946年に偶然に発見され、「嘉南農田水利組合」が買い戻し、銅像が復元されました。そして、八田技師の10年間住んでいた寮のバルコニーに置かれました。
銅像のそばを通りかかった嘉南の農民は両手を合わせて参拝しました。
1946年12月25日、「嘉南農田水利協會」は、台北東本願寺に預けられた八田與一と妻外代樹の遺灰を土に埋蔵し、和風花崗岩の墓石が八田技師の座像の裏に建てました。
1981年、ついに住民より銅像に台座を追加し、元の場所に設置しました。八田銅像区が完成した同年に、八田技師の長男である八田晃夫氏と、八田技師の孫である八田修一氏、武田啓夫氏(晃夫氏の東大同級生)と長井賢誓議員、中川外司議員が台湾に来られ、「嘉南農田水利協會」を訪問しました。日本にも「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」も設立しました。
毎年の命日5月8日には追悼式をあげ、日本からは八田技師のご遺族や関係者の方々、台湾全土からも多くの方(嘉南農田水利協會、農民、あらゆる分野の人々、台南県長、日本交流協会、日本人学校、台湾日本協会など)が参列してきました。
2008年、蘇俊雄(司法官)と許光輝教授が追悼式に参加後、当時の徐金錫会長と「八田基金会」の設立について相談しました。
2009年8月10日に基金会の初回準備会議が、司法官蘇俊雄氏、經濟部水利署長黃金山氏、元嘉南農田水利會会長徐金錫氏、超藝傳播股份有限公司董事長賴邱貴氏、大億集團総裁吳俊億氏、東陽實業総裁吳永豐氏、吳尊賢文教公益基金会董事長張麗堂氏、日台民間文化交流促進會代表吉田直嗣氏が代表として、行われました。
元「嘉南農田水利協會」の経理陳正美氏が基金会の運営担当者に勤めます。また、2010年2月26日に「八田文化藝術基金會」が正式に設立されました。