明治末期以降、日本国内の米の生産不足が深刻化し、朝鮮や台湾からの米への依存度が高まり、台湾総督府は米の増産を強く迫られ、台湾総督府民政部土木局は、米の増産を目指して、米を栽培できる水田を積極的に探し、灌漑事業を建設しました。
その頃、桃園台地には「埤塘(ひとう)」と称する貯水池が数千を数え、農民の貴重な糧になっていました。
しかし、水が不足すると「埤塘」が干上がって生産体系が崩れ、住民の生活を脅かしました。総督府は、桃園台地のそれぞれの埤塘をつなげる灌漑計画を立案、土木局の官費官営工事として実施することにしました。
1916年から着工し、1924年に完工した「桃園大圳」は灌漑面積23,000甲で、総事業費約1,248萬を費やしました。
八田与一氏は事前調査と測量を行い、これを基に技手の狩野三郎を中心とする若手技術者が設計と施工を担当しました。
「桃園大圳」完工後、八田技師は、嘉南平原の調査を開始しました。
調査の結果、降雨量が不均一で、年平均気温が高い、蒸発も速い、地形が平坦で沿岸部の排水が困難などの問題で、「桃園大圳」のような「埤塘」を嘉南平原に建設することはできないことがわかりました。
しかし、官田溪と龜重溪の上流域には大型の貯水池を建設する可能性があることが判明したので、この2つの貯水池から灌漑用水を供給し、さらに排水施設を建設することにしました。これが「官田渓埤圳工事計画」でした。
「官田渓埤圳工事計画」は1920年9月1日から着工し、1930年に完工しました。総事業費54,139,678を費やしました。75,000甲の土地に十分な灌漑用水を得られました。
嘉南大圳は前後10年、桃園大圳は8年続き、日本統治時代の台湾の水利建設の中で最も長い建設は嘉南大圳でした。
建設遅延の主な原因は、建設の難しさです。その中には「烏山頭トンネル工事」及び「烏山頭ダム」が一番難しかったです。
「烏山頭トンネル工事」は1922年6月に着工し、同年12月6日に爆発事故が発生、50人以上の死傷者が出たため、計画は何度も変更されました。
3,110 メートルの短いトンネル建設は、完成までに6年もかかりました。
烏山頭ダムは、堰堤の長さ1,350m、堰堤体積297万m³で、ダム型式はセミ・ハイドロリックフィル工法(半水成式工法)でした。1921に着工し、1930年に完工して、9年もかかりました。
嘉南大圳の灌漑面積は13万甲で、台湾最大の灌漑施設となりました。
当時、台北の水利施設全体の灌漑面積はわずか37,616甲であり、台中水利の面積はわずか83,704甲でした。
ダムの建設は地元の自然環境に大きな影響を与えており、施設自体のほとんどがコンクリート構造であるため、地形が大きく変化しました。ダム完成後、集落の形態と機能が徐々に変化され、農業方法が制限されるなど、人間環境への影響もかなり広範囲に及んでいました。
要約すると、ダム建設は、台湾総督府へも、地元の地主や農民へも、さらには地元の自然環境にも、大きな影響と重要性をもたらしました。