嘉南大圳と八田與一

嘉南大圳の建設前の嘉南平原

水利設施

1行政区画と歴史

嘉南平原の範囲は、およそ東経120度の西海岸から始まり、東経120度35分の阿里山山脈の麓と高屏渓の西岸で終わると定義されています。
南北範囲は、元の灌漑地域に基づき、北は濁水溪、南は二仁溪に囲まれた地域です。
面積は東西約71キロメートル、南北約110キロメートルで、全体の面積は約4,884平方キロメートルで、島全体の約14%を占めます。
嘉南平原の行政区分は、1920年の5州2廳の時期に、その範囲は大まかに決定されました。つまり、台南州の管轄下の1市10郡16街50庄です。
戦後、名前が変更されましたが、実際の管轄範囲は1975年まではあまり変更されていませんでした。
嘉南大圳の水利組織は、時期によって異なるため、灌漑地域の範囲も違いました。
1975年(中華民国64年)までは、雲林縣、嘉義縣、台南縣、台南市の4県市が含まれました。
1974年9月26日に「農村建設加速期の農地灌漑改善の要点」が公布され、雲林灌漑地域は嘉南水利協会から外されましたが、大圳システムに属するから、嘉南大圳の範囲は、雲林も含めの5つの県市を定義されました。

2オランダ統治時期の水利建設

台南は台湾で最も早く開発された地域でした。
オランダ、明、鄭の時代には、穀物の供給源を確保するため、貯水槽を建設し、乾季の降雨量不足と生産力不足の問題を解決しました。
オランダ時代、台湾を統治するオランダ東インド会社は、商業的利益を考え、砂糖、稲作、鹿の皮などを中心に励まし、貯水槽・水路などを建築、「王田」制度を設立しました。
嘉南村の旧名前は「三腳埤」で、3つの独立した池があり、1つは烏山頭ダムの漁管處にあり、もう1つは現在の烏山頭浄水場の後ろにあり、三つ目は現在の新しい給水口の近くにあります。オランダ時代は、この三つの池を使って、水利施設を建設しました。
鄭成功がオランダ人を追放した後、軍隊が駐留し、移民及び耕作などをしました。
烏山頭の付近の地域では、多くの集落が設立されました。例えば、官田郷官田村の「官佃」・「中協」集落、六甲鄉中社村の「林鳳營」集落、柳營鄉果毅村の「果毅後」集落などです。
鄭成功は、烏山頭を近隣地域の水源として、水利を構築し、民間と軍用食品の生産を確保しました。
農業生産を促進するために水利を構築する開発策は、清朝時期に完全に実施されました。
例えば、番子橋埤(今の官田鄉葫蘆埤)、岩後埤(官田鄉烏山頭)、洗布埤(六甲鄉六甲村)などの小さな池(埤)が多数開発され、三腳埤の水利施設も建設され続けました。

水路を引いて灌漑(オランダ時期)

水路を引いて灌漑(オランダ時期)

3清朝時期の旧埤圳

日本統治時代の台湾総督府は、1902年(明治35年)に1/20,000の地図の描画を完了しました。この地図に基づいて調査しました。
嘉南平原には21の古い埤圳があり、灌漑されておりました。
、最大の埤圳灌漑面積は300甲[注1]を超えており、清朝時期の水利施設の規模に相当しました。
[注1]:「甲」は台湾の伝統的な面積の単位であり、耕地の面積を表します。

農民は農地を灌漑します

農民は農地を灌漑します

4公的埤圳の調査

総督府は、1901年7月4日(明治34)に「台湾公的埤圳規則」を公布し、過去に私有財産と思われた埤圳を法規制により、「灌漑を目的として公共の利益を有するすべての水路、貯水池およびその付属品は、公共の埤圳とする」と明確に規定されました。
1920年(大正9年)に公共埤圳の嘉南大圳が設立されました。
もともと民間産業であった別々の嘉南平原地域の埤圳を、より完全なシステムに統合されました。
公共埤圳の管理者は依然として埤圳の利害関係者によって選出されましたが、地方局長は政令によって彼らを任命および解任する権利を持ち、すべての水利費の徴収、水利権に関する紛争、および地域の識別は地方局に管理されます。
「台湾公的埤圳規則」は、「公共の水利権」の概念を表すだけでなく、総督府が水利に積極的に関与することも表しました。
公共埤圳に指定されていない民間の水利施設を「指定外埤圳」といいます。
その水利施設は小規模であり、殆どは 100 甲以下です。
「指定外埤圳」の管理は依然として埤圳の所有者に管理され、水道料金を徴収する権利は持ちましたが、総督府に「台湾公的埤圳規則」と同様の規制で管理されました。
新たな「指定外埤圳」の設立は総督府の認可が必要でした。多くの「指定外埤圳」は徐々に公的埤圳になりました。
嘉南大圳が建設される前、嘉南平原の「指定外埤圳」の灌漑面積は6,157甲でした。

公的埤圳-嘉南大圳組合

公的埤圳-嘉南大圳組合

籠式給水器具及方法

籠式給水器具及方法

土名龍骨車給水器具

土名龍骨車給水器具

在來用水車

在來用水車

農地の利用

日本統治臺灣之後,為發展臺灣農業,積極在臺灣從事土地及與農業相關的資源調查,俾建立農業發展的基礎。嘉南平原擁有農業發展很好的條件,但最高的埤圳灌溉面積卻只有三百餘甲,為有效利用水資源來發展農業,必須將舊有埤圳加以整合,所以有1901年公共埤圳的認定,繼而有1908年的官設埤圳工程和1920年水利組合的設立,受到官設埤圳桃園大圳興建成功的刺激,1920年開始興建大圳,但受到工程難度及外在環境的影響,工程歷時10年至1930年才完工,雖然興建過程艱辛,但卻是當時臺灣及亞洲最受注目的水利設施。

1日本統治時代の農業振興政策

日本は、台湾統治当初から「台湾農業、日本工業」の政策を確立しており、台湾では米とサトウキビの生産を主にする方針でした。
明治維新以降、日本国内の産業が次第に工業化され、1901年から毎年米が不足していたため、米が需要でした。
特に1905年の日露戦争以降、食糧不足の問題は深刻化し、日本国内でも大きな問題となり、亜熱帯の温暖多湿な気候に位置する台湾は、米供給の役割を担っていました。
また、台湾を領有した頃の日本は、砂糖消費量の大部分は輸入に頼りました。
台湾植民政策を産業振興に置き、その中心に糖業奨励を推進することは台湾総督府の最優先事項でした。
新渡戶稻造氏は、灌漑実験を実施し、灌漑の効果を農民に示し、溝渠を掘る人に補助金を与え、水利組合組織を奨励する必要があり、大規模な灌漑を建設すべきだと考えました。
また、水不足な土地は田んぼに適しませんが、サトウキビの栽培には適します。古い習慣を打破するために、農民を保護と報酬を与えなどの方法で、サトウキビの植え付けに従事するように誘導するべきだと考えました。
サトウキビ栽培の奨励については、栽培制限を緩和し、栽培者を守り、「盗賊」侵入防ぎ、そして、道を開き、サトウキビ畑を耕す人に優遇をしました。
政府側としては、低利の融資を行い、政令で奨励方法を公表し、所有権を開墾成功者に与え、サトウキビの苗木や肥料を提供して奨励しました。

2縦断鉄道の西側の水田の割合が少ない

嘉南平野は灌漑用水が不足していたため、この地域の水田化の進行は遅く、地理的環境と早期の水利開発の要因により、各地域の水田化の割合も異なります。
縦断鉄道を境界として、縦断鉄道の西側は水源が不足していたため、水利開発の効果は限られ、ほとんどは畑と塩害の土地でした。一方、縦断鉄道の東側は、山や丘の近くにあり、水源が比較的安定し、水利の開発が早かったため、水田の割合が多かったです。
記録によると、斗六県、嘉義県、新営県、曽文県など縦貫鉄道の東側に位置する地域の水田の割合は、全区の35%を超えており、水田の割合が高い、嘉義県の水田の割合は60%に近いでした。縦貫鉄道の西側に位置する県は水田が少なく、北港県の水田率はわずか2%、北門県の水田率はわずか4%にすぎませんでした。

3 農業生産量が5つの州の中で最も低い

嘉南大圳が完成する前に、嘉南平原の耕地面積は約26万甲に達し、島全体で最大の耕地面積でした。
1925年の世帯あたりの平均農業生産高は 474 元で、5州の中で最も低く、農地(甲)あたりの平均生産高も223元で、5州の中で最も低かったです。
嘉南平原の耕地面積は台中州の2倍近くもあるが、総農業生産高は台中県の83%に過ぎず、世帯当たりの平均農業生産高は台中州の60%に過ぎない、農地(甲)あたりの平均生産高も台中州の50%にすぎませんでした。
嘉南平原の農業生産高が、台中州や島の他の地域よりも遥かに低かった原因は2つの理由が考えられます。
第一に、嘉南平野に植えられた作物の経済的価値が低いこと、第二に、日本政府の砂糖保護政策の影響で、サトウキビの購入価格が意図的に引き下げられ、サトウキビはこの地域で最大の作物であることでした。